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手錠のままの脱獄

先日、群馬県のとある町で、公務執行妨害で護送中の外国人風の男が手錠をつけたまま警官を振り切って逃走し世間を騒がせた事件があった。

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この事件から、若かりし頃に観た「手錠のままの脱獄」という映画のことがふと思い出された。

この映画では、白人俳優のトニーカーテイス(ジャクソン役)と黒人俳優のシドニーポワチエ(アレン役)が囚人護送車の転落事故のどさくさに紛れて手錠につながれたまま脱走、修羅場を潜り抜けながら逃亡する映画であった。

二人とも当時の若手ホープでの俳優で、当初はお互いに反目してぎくしゃくしているが、いろいろな困難を乗り越えていくうちに肌の色を超えて次第に絆を深めていく。

列車から飛び降りて、斜面を転びながら草むらに忍び込み、つながれた手錠のままで、一緒に歌を口ずさむラストシーンが今も強く印象に残っている。

トニーカーテイスは、その後、あのマリリンモンローとの「お熱いのがお好き」が話題になった程度で、役者としてはパッとしなかった(2010年85歳で没)。

一方のシドニーポワチエは、「野のユリ」で黒人俳優初のアカデミー主演男優賞を受賞、そのほかにも「暴力教室」「風と共に去りぬ」「80日間世界一周」などの話題作で活躍、黒人俳優の草分け的存在で、90歳の今も存命中である。

南北戦争(1861年~1865年)から100年近く経った1958年制作の作品であるが、まだ人種問題が色濃く残っており、そういった意味でも話題を呼んだ作品で、いくつかの有名な映画賞も受賞している。

石原裕次郎…日本人が最も愛した男

中学2年の頃、京都郊外の宇治中学から京都市内の北野中学に転校、「あなたのクラスは15組です」と聞かされ、その大きさ(一学年16クラスあり、校歌には北中2400人とあった)にびっくりした。市内最大のマンモス中学であった。

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早速柔道部に入部する一方で、週末になると人気絶頂期の石原裕次郎作品にはまり、近くの円町(西大路通り沿い)にあった「ワールド劇場」に頻繁に通っていた。

当時見た作品は、かの有名な「太陽の季節」から始まり、「狂った果実」「風速40メートル」「嵐を呼ぶ男」「錆びたナイフ」「紅の翼」そして「陽の当たる坂道」と枚挙にいとまがない。

その後、彼はトップスター街道をまっしぐら、52歳の若さで太くて短い人生を終えた。

本ブログで高倉健の話をしたことがあるが、裕次郎の大衆人気は「すごい」のひとことであり、さすがの健さんも一歩譲らざるをえまい。

裕次郎の没後30年を記念してこのほど「石原裕次郎・日本人に最も愛された男」というタイトルの本が出版され、会社近くの書店のショーウインドーに華々しく登場した。

店主はきっとパリパリの裕次郎ファンなのであろう。

この季節にピッタリの大好きな裕次郎ソングがある。しばし低音の魅力に・・・

秋の夜は更けて

巣抱く虫の音に

疲れた心癒す

我が家の窓辺

静かにほのぼのと

幸せはここに

南伊豆での合宿と若い漁師

恒例の大学水泳部同世代仲間の合宿で南伊豆に出かけた。

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いつもの民宿で2泊3日、雑魚寝でワイワイガヤガヤ。

寄る年波に勝てず、参加メンバーは次第に減り今年は5人となってしまったが、それでも素潜りや囲碁、野球観戦などで楽しいひと時を過ごした。

下田から石廊崎方面行のバスで30分、近くに国民休暇村があり、そこの海水浴場は砂場も広く、遠浅でかなりの人出があった。

この夏は雨の日が多く、ハイシーズンがさっぱりだったが、この週末(8月21~22日)の南伊豆は好天に恵まれ、海も穏やかで、絶好の海水浴日和となった。

そのため、いつも利用するなじみの民宿も久方ぶりの満室で8畳一間に5人が押し合いへし合いで泊まり込んだ。

かれこれ20年近く馴染んでいる宿で、女主人とはすっかり顔なじみであるが、かって小学生だったお孫さんが赤銅色の若者に成長、一人前の漁師姿になって驚いた。聞くと「都会で自動車整備工をやっていたが、サラリーマン生活に疲れ故郷に舞い戻ってきた。今はサザエやアワビを素潜りで採っており、多い日には3時間ばかり潜って、20万円の稼ぎ(漁協に卸す)になる。これから冬場に差し掛かると伊勢エビの刺し網漁が待っており、年中忙しい」と誇らしげに語ってくれた。

「海女さんは高齢化が進み次第に減少、今は25歳の自分(男)が最年少」とのことであり、

漁船員の弟ともども、この漁村でも世代交代が着実に進みつつあるのを感じた。

ローサは密告された

世界の映画作品の中で、今最も注目されているのが何とフリッピンだということはあまり知られていない。

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その中でも、このほどアカデミー賞外国語作品賞、カンヌ国際映画祭主演女優賞、ヒホン国映画祭監督賞など含め世界中で50を超える映画賞を軒並み受賞したこの「ローサは密告された」という作品が秀逸とされている。

舞台はマニラ、東南アジア最大のスラム街を抱え、麻薬撲滅戦争のさなかにあるこの首都の暗部にカメラは潜入する。

そこでは、賄賂、暴力、密告、売春が横行、腐敗した警察組織など生々しい現実の姿が描き出される。

世界の映画関係者が最も注目する鬼才ブリランテ・メンドーサ監督の最新作で、主人公ローサ・レイエスを演ずるジャクリン・ホセはフィリピン初の主演女優賞である。

撮影は実際のマニラ市内のとある警察署で行われ、麻薬撲滅に国家を挙げて果敢に取り組む現ロドリゴ・ドウテルテ大統領の時代にこの作品が生まれている。

その生々しさは全編息をのむほどで、ラストシーンの主人公の姿がかろうじて涙と救いをもたらしてくれる。

あいにくの雨模様の週末、渋谷駅から宮益坂を上り、青山通りにさしかかった小さなシアター「イメージフォーラム」で鑑賞したが、さすが知る人ぞ知る、年代を問わない映画通でほぼ満席状態であった。

あまりの衝撃に、興奮をいやすため近場の喫茶店スタバでしばし休息をとり、渋谷から新木場そして新浦安へと、りんかい線、京葉線を乗り継いで帰路に向かった。

六尺ふんどし

夏本番、海水浴シーズンの幕開けである。

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腕白盛りを鳥取の田舎で育ったことから、ともかく体を動かすことが大好きで、夏ともなると悪がき先輩たちに連れられ近くの池や川で魚取りの傍ら、我流の泳ぎにはまっていた。

もちろん溺れるのは日常茶飯事、水をしたたか飲んで、知らぬ間にカナヅチを卒業していた。

そのころ、うらやましくてしかたなかったのが、「六尺ふんどし」である。

きりりと引き締まった体に、赤銅色の青年がしめた六尺ふんどし姿がかっこよく、「いつか自分も」と思っていたが、なかなかかなわずそのうち子供用の黒い海水パンツをはかされていたように思う。

この六尺ふんどしは厳密には鯨尺で六尺(228センチ)もあるので、腹部に3回り以上巻いて引き締め、臀部は露出されている。

この姿は東南アジア、ポリネシア、中南米に広くみられるので南方伝来説が多いが定かではない。

日本では江戸時代に庶民とくに飛脚たちの間でこの姿が広まり、明治期以降軍隊ではこの「六尺ふんどし」ならぬ「越中ふんどし」が支給されている。

日本の海水浴の歴史は意外に浅く、明治期に陸軍軍医の松本良順医師が「健康に良いので夏は海水浴を」と推奨したのが始まりとされている。

その後、昭和に入り日本もオリンピックに出場するようになると、とくに水泳での活躍が目立ち、昭和3年のアムステルダム五輪では水泳で初の金メダルを、昭和7年のロス五輪では5種目制覇、昭和11年のベルリン五輪では「六尺ふんどし」姿で金メダルラッシュとなり「水泳王国日本」をみせつけたため、この「ふんどし姿にメダルの秘訣があるのでは?」と外人記者から取材攻めにあったそうである。

こんな輝かしい歴史も、その後「おしり丸出しで子供たちが恥ずかしがっている」との父兄の声に押し流され、次第に下火となってしまった。

ただ、最近はむしろ若い女性の間で「Tパック水着」が流行るようになり、かっての若い青年たちの「きりりとして六尺ふんどし姿」が今となっては懐かしく思い出されてくる。

蝉しぐれ、忘れられない名作と名歌

早朝、近くの公園を散歩するとアブラゼミの声がうるさくなってきた。

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いよいよ蝉シーズンの到来である。

蝉は何と300種もあるようだが、子供のころから慣れ親しんでいるのは、順にニイニイゼミ、アブラゼミ、ヒグラシそしてツクツクボウシといったところである。

地中に潜り孵化するまでは、長いものでは2年ぐらいかかるらしいが、地上に出るとわずか数週間ではかない一生を終える。

夏も盛りを過ぎるころにはツクツクボウシの三段階の鳴き声(ツクツクボウシ・・・スッタカインヨ・・・ズー)が聞かれ、「暑かった夏もようやく終わりそうだ」と一息ついていたが、最近は温暖化の影響もあってか10月ごろにも蝉の声を聴くことがある。

蝉をタイトルにした藤沢周平の「蝉しぐれ」は何度も読み返した愛読書である。

蝉しぐれとは、多くの蝉が一斉に鳴きたてる音が時雨の音に似ていることからつけられたとのことである。

名作「蝉しぐれ」は、周平ファンにはなじみ深い海坂藩を舞台にした時代小説で、主人公牧文四郎が蛇に噛まれた隣家の娘ふくを救ってやるところから始まる。藩の政争に巻き込まれた父の切腹という悲運に見舞われながらも、親友との交流や淡い恋物語などを心の支えに、ひとりの少年藩士がたくましく成長していく姿を、ゆたかな自然の中で描いたこの作品はいつまでも忘れられない。

もう一つ、忘れられない「蝉しぐれ」に五木ひろしの歌がある。

「夜に爪切る音がする・・・都会の冷たい蝉時雨・・・いつか忘れたさよならを映し出すよな蝉時雨」

やるせない哀愁を漂わせるこの歌は、まさしく演歌全盛期に一世を風靡した五木ひろしが

細い目をさらに細めて見事に歌い上げており、代表曲「千曲川」「よこはま・たそがれ」とともに今もって忘れられない。

 

ジーサンズはじめての強盗

久しぶりに面白い映画を観た。

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原題は「Going in Style」だが、邦訳は「ジーサンズ初めての強盗」これには賛否両論。

名優モーガンフリーマンら3人の80代の超高齢者が年金危機にさらされ銀行強盗を企てるという、痛快作品である。

フリーマンはもちろん、マイケル・ケイン、アラン・ラーキンいずれもアカデミー受賞の名優揃いで、脇役や子役陣の演技も素晴らしい。

ストーリーは、会社の合併により突然積み立ててきた年金が消えるという悲劇に見舞われたところから始まる。

3人の老人が、その筋のプロのコーチを受けながら、アリバイ工作も完ぺきに銀行強盗に挑み、FBIの追撃からも巧みに逃れるという、ありえない痛快コメデイーである。

社会問題ともいえる、この重々しいテーマだが、ユーモアたっぷりに軽妙に描かれており、現実離れしたすっきりとした仕上がりもいい。

さしずめ、日本版「ネズミ小僧」ならぬ、米国版「ネズミ爺」といったところか。

夏休みシーズンに入り、近場の映画館は子供向け作品オンパレードとあって、久しぶりにワイフ共々都心のシアターに足を運んだ。

年配者が多いのでは?と思ったが、意外にも若い女性客が多く、これも驚きであった。ともかく、暑い夏のひとときをしばし広々とした劇場型シアターでゆったりと過ごすにはもってこいの作品である。

 

 

G&MからG&Gへ

なんだかわかりにくいタイトルで、何のことやら?

昭和40年代から50年代、日本経済がまだ右肩上がりどころか、第一次オイルショック直後の48年には狂乱物価で「トイレットペーパー騒ぎ」に見舞われたが、今となっては懐かしく、時の総理は金権政治でバッシングされ、今そのたぐいまれなる政治手腕が見直されつつあるあの田中角栄であったのも、どこかうなずける。

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バブルの膨張はまだ起こっておらず、円相場はようやく1ドル360円の固定相場時代から変動相場制へ移行したばかりで「円高」なんて言葉がようやく生まれたばかりの頃であった。

社会人になってあまり経っていなかったが、学生時代にはまっていた麻雀が職場でも仲間づくりに結構効果的で、仕事帰りに名うての先輩連と雀卓を囲むことが少なくなかった。

一方で、ゴルフ仲間も次第に増えていき、週末ともなると割安なパブリックコースでラウンドする機会も次第に増えてきた。帰りに交通渋滞に巻き込まれと雀荘でしばし卓を囲んでやり過ごしてから日暮れとともに帰路に就く、これを「G(ゴルフ)&M(麻雀)」と称して、同好の士と二重の楽しみに興じたりしていた。

当時植木等(ひとし)の歌う「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ・・・」という唄が流行っていたが、それを地で行ったような気楽さがあったような気もする。

年を経て、高度成長から安定成長へさらにはゼロ成長へと大きく経済環境は大きく変貌、時代もそろそろ平成が幕を閉じようとするある日のこと、すでに現役生活を終えた悠々自適の昔仲間と、富士山ろくにほど近い安宿で囲碁合宿に興じた後、翌日近隣のゴルフ場でラウンドする機会があった。

かって当時の職場仲間と渋滞回避で「G&M」に興じていた頃をふと思い出し、時代を経て趣味が麻雀から囲碁に変わり「G(ゴルフ)&G(碁)」となったものの、久しぶりの気楽な楽しい仲間との戯れに、往時の気楽なサラリーマン時代がこのダジャレ趣味とともによみがえってきた。

丸の内行幸マルシェ

勤め帰りの通勤経路で毎週金曜日の夕方に出会う楽しい青空市場がある。

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称して「丸の内行幸(みゆき)マルシェ」という一見しゃれた名前のマーケットである。

都営三田線大手町駅からJR京葉線東京駅まで20分近く歩くが、まさに東京のど真ん中のここに皇居に通ずる行幸通りがあり、広い地下通路には「世界の鉄道」「世界の街角」「行き交う人々」などを撮影した見事なフォト展示空間が広がる。

壁面いっぱいに展示された36枚の美しい街並み等の写真に目を奪われながら歩くと、紺碧のエーゲ海にさんさんと降り注ぐ太陽、スイスの山々と緑の中に点在するオレンジ色の家々、有名なターミナル駅に群がる群衆などが飛び込んでくる。

その行き着く先、東京駅にほど近いところに青空市場が軒を並べている。

大半が段ボール箱を切り開いて野菜や果物などを雑然と並べただけの、いたって素朴な産直市場である。

ラッシュアワーの割には通勤帰路に行幸通りを利用する人は少なく、どちらかというと広い空間もあってガランとした感じである。

この行幸マルシェを見つけたのはほんの1年ほど前であるが、スタートしたのは今から8年前、俳優の永島敏行さんらが音頭を取り、対話のできる産直市場として誕生したとのことである。

特に震災直後は、福島や宮城、岩手の産品を優先して並べ、被災地支援の一助としたようだが、今は和歌山のみかんや岡山の桃、山形のサクランボ、さらにはドイツの焼き菓子など日本だけではなく世界各地の産品も競うように並んでいる。

最近はすっかりファンになり、毎週金曜日の夕方になると立ち寄っては、お店の人たちとも「お帰り」「よい週末を」などと親しく言葉を交わすようになってきた。

三連休前の直近の金曜日は、さっそく山形のサクランボ「紅秀峰」(有名な佐藤錦の新種)、広島福山のポンカン「南津海(なつみ)」、高知のサマーオレンジ「小夏(こなつ)」そして茨城つくば産の「茎わかめ」を買って帰り、週末の食卓をにぎわせている。

東京有名会のこと

1985年頃、日銀名古屋支店に営業課長職として勤務したことがある。

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まさに同じ年の9月、アメリカはレーガン政権下で敏腕のベーカー財務長官がリードしてプラザ合意がなされ、その後途方もない急ピッチで円高が進行、わずか2年ほどで1ドル260円から130円へと突入していった時期であった。

たまたま、時の澄田総裁のお供で名古屋のとあるホテルでの講演会に出かけたが、もちろん未曽有の円高への世間の批判は強く、不測の事態回避のための警備陣の配備も尋常ではなかった。

総裁も、講演のさなか、「今入っていた情報では1ドル203円(実際は213円)になっております」と10円も間違え慌てて講演の最後に訂正する、といったあってはならないハプニングにまで見舞われた。

そんなあわただしい頃、かって出向していた頃に親しくなった開銀(今の政策投資銀行)の飯倉企画調査課長と頻繁に情報交換していたが、とある日のこと「朝日新聞の名古屋経済部長に箱島さん(のちの朝日新聞社長)という面白い人がおられるので、一度会って食事でもしないか?」という話を持ち掛けられ、二つ返事でお受けした。

その後会合の仲間は、日経新聞名古屋支局、NTT名古屋支店、東海財務局、中部通産局などのやはり中間管理職仲間へと輪が広がり、さらに東京に転勤してからも「東京有名会」という名前で、毎年一回七夕の前後の金曜日夕方に「まるでおりひめとひこぼしのように天の川を挟んで出逢い」お互いの消息を確かめ合うようになった。

今年の7月7日はまさしく金曜日で、総勢13名の仲間が集まり、この一年間の自己反省とこれからの一年の自らの研鑽計画を披露しあったが、なにしろ名うての論客ぞろいとあって、話題はかなり多岐にわたり、戦後の日本政治をどう考えるか、憲法改正問題の行方、安倍政権の評価、小池都知事の手腕、といった生々しい話から少子化問題の行きつく先、黒田日銀総裁の現下の金融政策と歴代中央銀行総裁論等々ともかくアルコールの勢いも借りて夜更けまで熱い天下国家論が飛び交った。

来年はどんな年になっているか?議論にさらに磨きをかけ、意気軒高な「東京有名会」での七夕再会を約してお開きとなった。